ROUND4 サンマリノ
予選1回目 |
順位 |
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予選2回目 |
順位 |
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決勝 |
順位 |
J・バトン |
5位 |
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J・バトン |
1位 |
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J・バトン |
2位 |
佐藤琢磨 |
8位 |
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佐藤琢磨 |
7位 |
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佐藤琢磨 |
16位 |
O・パニス |
10位 |
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O・パニス |
13位 |
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O・パニス |
11位 |
ダ・マッタ |
13位 |
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ダ・マッタ |
10位 |
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ダ・マッタ |
リタイア |
1994年5月1日。偉大なレーサー、アイルトン・セナが亡くなったコースです。まだ、この頃の私は小学生でした
F1には興味をもっておらず、テレビゲームをしていた時代です。F1に興味を持ち出したのは高校生になってからです
友人に当時のレースが収録されているDVDを借りて、セナがこのコースで亡くなったことを初めて知りました。
さらに、最近になってセナの雑誌の特集記事でセナについてさらに詳しく知りました。
調べれば調べるほど偉大なドライバーだということがわかりました。そして、セナの死が現代F1の安全性を確立したの
だとわかりました。1994年5月1日のサンマリノGPは本当に最悪のGPでした。
ルーベンス・バリチェロが金曜日の予選1回目でスピンし、フェンスに激突。その週末に病院に運ばれました。
翌日の土曜日、予選2回目、ローランド・ラッツェンバーガーがトサコーナーの手前でフロントウイングがはずれ、
コースアウト。コンクリートウォールに激突し、帰らぬ人となってしまいました。彼の死は1986年にポールリカールで
亡くなったエリオ・デ・アンジェリス以来のF1ドライバーの死亡事故となってしまいました。
そして決勝日、1994年5月1日午後2時17分、7周目のタンブレロコーナー、セナの乗るマシンはコーナーを
曲がることなく、かつスピードを落とすことなくコースアウト。マシンはコンクリートウォールに激突
この衝撃でセナのマシンは前部と右側が大破。マーシャルがすぐに救助し、病院に運ばれた
セナの様態は「状態は深刻。頭蓋骨に複数の骨折がみられ、前頭部が陥没、出血も多量で脳にもダメージがあり深い
昏睡状態にある」とのことだった。そして、午後6時40分。心肺停止・・・。
セナがどんなレースをしてきて、彼がどれだけ偉大であったかを調べれば調べるほど、彼の死を大きな喪失であったと
思います
さて、2004年のサンマリノGPに話を戻します。
ホンダ勢はJ・バトンが初ポールポジションを獲得!決勝でも絶妙なスタートを決め、1度目のピットストップまで
トップを快走!しかし、ピットストップでミハエル・シューマッハに先行されてしまう。
その後は安定したペースでレースを最後まで走りきり、2位表彰台を獲得。J・バトンは3戦連続表彰台を獲得
佐藤琢磨はスタートは決めるも、ギアボックスのトラブルでペースがあがらず、ピットストップごとにひとつずつ順位をお
としてしまう。なんとかポイント圏内を走行するも57周目にエンジンブロウ。16位完走扱いとなる
トヨタ勢はダ・マッタは32周目にドライブスルーペナルティを受けたり、マシントラブルでコースアウトしリタイア
O・パニスはなんとか完走するもポイント獲得まではいたらず。イマイチぱっとしない週末になってしまった。
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